「田巻安里のコーヒー」に思う鉄道趣味のこと

 今回は青空文庫の小説を読んで感じたことから。

 鉄道模型を含む「趣味」について考えるときに折に触れて心に引っかかる小説があります。

 岸田国士の「田巻安里のコーヒー」という短編小説。
 これは青空文庫でも読むことができます。
 その中で心を引いた部分を抜粋・引用させていただきます。少し長いですがご勘弁を。


 田巻安里は、はなはだコーヒーをたしなんでいた。彼は、朝昼晩、家にあっても外にあっても、機会を選ばずコーヒーを飲んだ。友人と喫茶店にはいり、「君はなに?」と問われれば、「無論コーヒーさ」と空うそぶき、コーヒーさえ飲んでいれば、飯なんか食わなくてもいいと放言した。
 だれも、彼がコーヒーをたしなむことに偽りがあるとは思わなかつた。ただ、敏感な友人は、彼がコーヒーをたしなむことは、寧ろ「コーヒーをたしなむこと」をたしなむに近いと思つていた。
 (中略)
 少しうがつた観方をすれば、彼は、コーヒーを味はふ時よりも、「おれはコーヒーが好きだ」と思ひ、かつ、人からそう思われることの方が楽しいのである。それゆえに彼は、コーヒーを飲む時そのコーヒーの味よりも、それを味わう自分自身が興味の対象であり、かくまでコーヒーが好きであるといふ自分を、半ば賛美し、半ば憐みつつ、かの黒かつ色の液体を唇に近づけるのである。
(中略)
 一方、彼のコーヒー惑溺(わくでき)は、いささか「通」の領域に踏み込んでいた。彼は東京では、どこどこのコーヒーが一寸(ちょっと)飲めるといい、自ら書斎の一隅にコーヒーひきとフイルトレの道具を用意し、「これはこの間フランスから取寄せたコルスレだ」などと、不眠症の客をへき易させる奇癖をもつてゐた。ある友人が、試みに、「君は、小石川のどこそこに、近頃出来たカフエー・ド・レトワルつていふのを知つてるか。コーヒーはとても自慢ださうだ」といへば、彼はすかさず、「うん、あれや、大したもんぢやない。第一あんな熱いのを、そのままだすつていふ法はない」とこきおろした。ところがそんなカフエーは、その友人も聞いたことがなかつたのである。

 しかしながら、彼田巻安里は、決してコーヒーばかりを好んではいなかつた。彼はまた、文学を愛していた。彼は、泰西の近代文学史に通じ、現代日本の文壇を軽べつし、しかも軽べつしつゝ、その文壇の情勢に明るく、月々の雑誌に発表される数多くの作品を読み、二三、大家の門をたゝき、若干の新進作家と交遊関係を結び、もちろん、自らも小説と戯曲を書き、同志を語らつてパンフレツトを刊行し、原稿用紙に姓名を刷り込ませ、文学故に親戚と義絶するに至つたと心得、「牛肉が硬い」といふ時、「人生は憂うつなり」の表情を浮べるのである。

(中略)
 田巻安里は、この時この友人から奇怪な皮肉を浴せかけられた。
 ――「田巻のコーヒー的文学」といふ言葉が友人間を風びした。
 この友人に従へば、田巻安里は文学そのものを愛する以上に、「文学を愛すること」を愛し、引いて文学を愛する自分自身を慈しむのあまり、文学の本体を見失はうとしてゐるといふのである。

(中略)
 人間としての田巻安里は、今日の文学者の一つの型を代表してゐる、この型は、必ずしも理想主義者の中にばかりあるのではない。おい野添、お前も、幾分、この部類だぞ!
 ――馬鹿いへ!

 (中略)
 ――そんなら、お前だつて「女を愛すること」を愛する部類の人間だ。大きなことをいふな!
 主知的感傷派と自称する彼は、そこで、人間が今日、総てのものを、直接に愛するだけで満足しなくなつた傾向について論じはじめた。愛書癖を、その好適例として持ちだした。われわれが、何々を愛するといふ態度のなかに、田巻安里のコーヒーにおけるが如きものを見ない場合があるかと喝破した。旧くは骨とうにしろ、盆栽にしろ、釣りにしろ、新しきは、登山にしろ、銀ブラにしろ、西洋煙草にしろ、趣味を離れては技術にしろ、金まうけにしろ、異性との交渉にしろ、肉親の関係にしろ、なにひとつ「愛癖」を伴はないものがあるか。「愛癖」のあるところ、必ずエクスタシイがある。文学も、それでいゝのだ……。
 ――田巻安里万歳! と、彼は怒鳴つた。

 少し難しい所もあると思いますが、ここで出てくる「コーヒー」や「文学」をそのまま「鉄道」とか「模型」に当てはめて考えるとどうでしょう。
 「総てのものを、直接に愛するだけで満足しなくなつた傾向」とはまさに鉄道と鉄道模型の関係についてその本質を付いた言葉と感じました。

 特に模型の場合、対象となる鉄道や自動車の実物への愛癖からスタートしていると思うのですが、続けてゆくうちに「模型そのもの」への愛癖、更には「工作すること」「コレクションすること」への愛癖が前面に出て原点を見失っているきらいがあるのではないかと思えるのです。

 もちろんそれを突き詰めてゆく事が一種の成長であるかもしれませんし、大人への脱皮のひとつかもしれないとは思います。
 しかし、それでもどこかで趣味の本質・原点に立ち返る姿勢が時々でもないと自分は成長したつもりでいても実際には退化・退行してしまっていたり、楽しむはずの趣味が却って自分を苦しめる事になりはしないかとも感じるのです。

 どのジャンルの趣味でもそうなのですが「田巻安里」的な求道型の大家が必ず一人や二人はいるものです。ただ、そうした方々が真の大家になる過程ではどこかで原点に立ち返る(趣味の場合なら「子供の心に戻る」)プロセスがあるのではないかと思えます。

 以上、大家になれない凡俗の繰言でした。

 なお、この小説は全文合わせても大した長さではないので通勤の車中等でスマホの青空文庫で読むには好適と思います。できれば全文の購読をぜひお勧めします。
(写真は本題とは関係ありません。あまりに文字ばかりなのもなんでしたので景気づけに加えたものです)

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