ちょっと考える・コレクターとモデラーの間に
先日のYANチョさんのブログで興味深いことが書かれていたので私も触発されて(笑)書いてみたくなりました。
ブログの内容については以下をご参照願います。
http://yantetumokeikurabu.doorblog.jp/archives/10900693.html
鉄道模型のブログで長続きしているものを見るとその多くが車両にせよレイアウトにせよ「モデラー(あるいは工作派)」が書いているものが多いと感じます。
この趣味の世界には「モケイ」と「オモチャ」の関係と同様に「モデラー」と「コレクター」の間に横たわる「無限のグレーゾーン(笑)」が存在しています。
日本の鉄道模型の場合、16番メインだった時代はかなりのファンが「モデラー」の要素が大きかったと思います。当時のTMSも殆どが工作記事でしたし、「模型と工作」「子供の科学」後には「模型とラジオ」といったビギナー向けの模型誌も導入材として機能していました。
この流れが変わってきたのは昭和50年代初頭の「とれいん」で外国型モデルのコレクションの楽しみが紹介されはじめたことがきっかけとなっている気がします。
更に90年代辺りから16番より安価に完成品を入手できるNゲージの普及に伴う種類の充実もこの流れを後押ししていると思います。
その結果、「作る」「走らせる」とは別に「集める」と言う要素が鉄道模型の場合でもかなりの勢力を占める様になって来ています。
実際サイズが手頃で集めやすいこと、歴史が他のそれよりも浅いことで「お宝」「レアもの」がそれほど多くない事で始めたての人間でもそれなりに集めやすい要素もあるのでしょう。
ただ、この流れもあまり行き過ぎてしまうとおかしな事になります。
YANチョさんのブログでもその辺りで感じられる懸念の一端として「モデルに手を掛けなくなる傾向」の面から懸念を示しておられますが、そこで私が書いたコメントをここでも書かせていただきます。
~これは「モデラー」というよりも「コレクター」の発想だと思います。
こと日本の鉄道模型ではコレクターの要素が大きくなっているのですが、こうしたジレンマは「モーターを積んでいる模型」ならではではないかと感じます。
昔読んだ水野良太郎氏の鉄道模型の入門書でドイツのファンの言った言葉を思い出しつつ書きます。
「日本製のモデルはよくできているけどあれはコレクター向きだね。走らせるならリバロッシかメルクリンに限るよ」
「コレクターと鉄道模型ファンとは区別すべきだ。全く異質のものだというのが僕の考えだ」
鉄道模型の先進国ではこういう発想がごく自然にできるというのが凄いと当時思いましたが、今もその辺りはあまり変わっていないですね。
ミニカーの趣味もあるので感じますがこちらは純然たるコレクターが多く鉄道模型よりもある意味のどかな所があります。
ミニカーの場合「純粋に集める・飾る事に特化できる」からかもしれません~
「面倒だし難しいから」と言う理由で完成品を収集する心理も分からなくはありません。
実際面倒ですし(笑)
ですがコレクターであればモデルに手を加えたりはもちろん付属品の装着すら「価値を下げる行為」として禁じ手となる事が多いです。この方向が進みすぎるとモデラーとコレクターの乖離は更に広がり鉄道模型そのものの行き方がおかしくなる危険は感じます。
今でさえ新車を買うときから下取りを考える傾向が現れ始めていますし、改良製品が出ると旧製品がどっと売却される傾向も目立ってきました。そのうち利殖目的の投機商品として鉄道模型が捉えられかねない危険すら孕んでいると思います。
とはいえ、コレクター趣味がそれこそ「骨董」並みに成熟化できるならコレクターも悪くはないと思うのですが。
ここから先は完全に私見となります。
私の場合、コレクションと言うよりもレイアウトの上を走らせる為のアクターとして車両モデルを捉える傾向が強いと思います。
ですので超精密な完成品であろうと(そんなものは持っていないですが)300円で買った40年前のモデルだろうと、或いはものすごく下手に仕上がった改造・自作モデル(大汗)だろうとレイアウトの上では理論上は全く同列の扱いとなります。
当然どの車両も購入後走らせずに仕舞い込まれるという事は殆どなく、レイアウト上を一定期間走ることになるわけです。
つまり私にとってはレイアウトで走らせて初めて「自分のものになった」という感覚を得る事が多いです。その意味で言うなら完成品よりも多少なりとも手を加えたり(それが「義務としての」パーツ装着であっても)したモデルの方が走らせた時の思い入れは大きいと感じます。
(と言いますか、超精密モデルのディテーリングは手にとって愛でる時こそ大いに有効なのですが、レイアウト上で走行させると旧製品と印象があまり変わらない事が多いです。むしろ走行系のメカの性能に依存する「走りの質感」に高級感を感じることが多いです。たった1両ですが「外見は凄いのに走りはまるでだめ」と言うモデルも知っていますが、ディテーリングが少ない事よりもろくに走れない事のほうに「残念」感を感じてしまいます)
「鉄道模型は走らせて華」と言う考えは私の基本ですが(笑)実はこれは「模型」というよりも「オモチャ」のポリシーに近いものです。
その眼で見るとただ飾るだけのモデルにはどうしても食い足りない感じが残るし、自分なりに手を掛けたモデルにはそうでないものよりも愛着を感じやすい傾向があると思えます(例えると自分の子供が運動会で一等をとるのを見る感覚に近いのかもしれません)
この感覚は大事にしていきたいという思いはあります。
このあたりは「模型」と「おもちゃ」の捉え方の違いとも重なるところなのですが、これ以上書くと無闇に長くなってしまいそう(今の時点でも十分長いですが)なので考えが纏まったらまた続きを書くつもりです。
(写真は本題と関係ありません)
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鉄道模型のブログで長続きしているものを見るとその多くが車両にせよレイアウトにせよ「モデラー(あるいは工作派)」が書いているものが多いと感じます。
この趣味の世界には「モケイ」と「オモチャ」の関係と同様に「モデラー」と「コレクター」の間に横たわる「無限のグレーゾーン(笑)」が存在しています。
日本の鉄道模型の場合、16番メインだった時代はかなりのファンが「モデラー」の要素が大きかったと思います。当時のTMSも殆どが工作記事でしたし、「模型と工作」「子供の科学」後には「模型とラジオ」といったビギナー向けの模型誌も導入材として機能していました。
この流れが変わってきたのは昭和50年代初頭の「とれいん」で外国型モデルのコレクションの楽しみが紹介されはじめたことがきっかけとなっている気がします。
更に90年代辺りから16番より安価に完成品を入手できるNゲージの普及に伴う種類の充実もこの流れを後押ししていると思います。
その結果、「作る」「走らせる」とは別に「集める」と言う要素が鉄道模型の場合でもかなりの勢力を占める様になって来ています。
実際サイズが手頃で集めやすいこと、歴史が他のそれよりも浅いことで「お宝」「レアもの」がそれほど多くない事で始めたての人間でもそれなりに集めやすい要素もあるのでしょう。
ただ、この流れもあまり行き過ぎてしまうとおかしな事になります。
YANチョさんのブログでもその辺りで感じられる懸念の一端として「モデルに手を掛けなくなる傾向」の面から懸念を示しておられますが、そこで私が書いたコメントをここでも書かせていただきます。
~これは「モデラー」というよりも「コレクター」の発想だと思います。
こと日本の鉄道模型ではコレクターの要素が大きくなっているのですが、こうしたジレンマは「モーターを積んでいる模型」ならではではないかと感じます。
昔読んだ水野良太郎氏の鉄道模型の入門書でドイツのファンの言った言葉を思い出しつつ書きます。
「日本製のモデルはよくできているけどあれはコレクター向きだね。走らせるならリバロッシかメルクリンに限るよ」
「コレクターと鉄道模型ファンとは区別すべきだ。全く異質のものだというのが僕の考えだ」
鉄道模型の先進国ではこういう発想がごく自然にできるというのが凄いと当時思いましたが、今もその辺りはあまり変わっていないですね。
ミニカーの趣味もあるので感じますがこちらは純然たるコレクターが多く鉄道模型よりもある意味のどかな所があります。
ミニカーの場合「純粋に集める・飾る事に特化できる」からかもしれません~
「面倒だし難しいから」と言う理由で完成品を収集する心理も分からなくはありません。
実際面倒ですし(笑)
ですがコレクターであればモデルに手を加えたりはもちろん付属品の装着すら「価値を下げる行為」として禁じ手となる事が多いです。この方向が進みすぎるとモデラーとコレクターの乖離は更に広がり鉄道模型そのものの行き方がおかしくなる危険は感じます。
今でさえ新車を買うときから下取りを考える傾向が現れ始めていますし、改良製品が出ると旧製品がどっと売却される傾向も目立ってきました。そのうち利殖目的の投機商品として鉄道模型が捉えられかねない危険すら孕んでいると思います。
とはいえ、コレクター趣味がそれこそ「骨董」並みに成熟化できるならコレクターも悪くはないと思うのですが。
ここから先は完全に私見となります。
私の場合、コレクションと言うよりもレイアウトの上を走らせる為のアクターとして車両モデルを捉える傾向が強いと思います。
ですので超精密な完成品であろうと(そんなものは持っていないですが)300円で買った40年前のモデルだろうと、或いはものすごく下手に仕上がった改造・自作モデル(大汗)だろうとレイアウトの上では理論上は全く同列の扱いとなります。
当然どの車両も購入後走らせずに仕舞い込まれるという事は殆どなく、レイアウト上を一定期間走ることになるわけです。
つまり私にとってはレイアウトで走らせて初めて「自分のものになった」という感覚を得る事が多いです。その意味で言うなら完成品よりも多少なりとも手を加えたり(それが「義務としての」パーツ装着であっても)したモデルの方が走らせた時の思い入れは大きいと感じます。
(と言いますか、超精密モデルのディテーリングは手にとって愛でる時こそ大いに有効なのですが、レイアウト上で走行させると旧製品と印象があまり変わらない事が多いです。むしろ走行系のメカの性能に依存する「走りの質感」に高級感を感じることが多いです。たった1両ですが「外見は凄いのに走りはまるでだめ」と言うモデルも知っていますが、ディテーリングが少ない事よりもろくに走れない事のほうに「残念」感を感じてしまいます)
「鉄道模型は走らせて華」と言う考えは私の基本ですが(笑)実はこれは「模型」というよりも「オモチャ」のポリシーに近いものです。
その眼で見るとただ飾るだけのモデルにはどうしても食い足りない感じが残るし、自分なりに手を掛けたモデルにはそうでないものよりも愛着を感じやすい傾向があると思えます(例えると自分の子供が運動会で一等をとるのを見る感覚に近いのかもしれません)
この感覚は大事にしていきたいという思いはあります。
このあたりは「模型」と「おもちゃ」の捉え方の違いとも重なるところなのですが、これ以上書くと無闇に長くなってしまいそう(今の時点でも十分長いですが)なので考えが纏まったらまた続きを書くつもりです。
(写真は本題と関係ありません)
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この記事へのコメント
拙い記事まで御紹介頂いて有難う御座います。
これはもう本当に難しい問題になって来た気がしますね。
模型と実車などの体験や想いが殆ど無いのであれば
私らなら魅力は感じないと思いますけど,収集家には
そういう事は関係ないですから,兎に角所持する
快楽とネームブランドがあれば良い訳なんだと思います。
走らせる行為も自分の中の思い出や拘りを現す手段の1つですし
また玩具でありながら,玩具を越えたロマンを
感じられるのも素晴しい事だと感じてます。
手に入れるまでが楽しくて,実際に手にすると
そのものへの情熱は一気に冷めてしまう。
そういった傾向が強くなって来た気がしてなりません。
勿論。人それぞれですし,大きなお世話なんでしょうけどね(笑)。
長文駄文を失礼しました。
私も書いていて少し頭がこんがらがっています(汗)せっかく触発されて書きはじめたのに思ったより大きいテーマでしたね。
>手に入れるまでが楽しくて,実際に手にすると
そのものへの情熱は一気に冷めてしまう。
この流れ自体は前からありましたし、趣味のひとつの本質でもあると思います。
ですが「そればかり」になってしまうと問題ですね。
できるなら同じ対象で様々な楽しみ方を体験したうえで自分に合っているジャンルへ収斂させてゆければベストなのでしょうが、
せっかちな今の世の流れではそういうプロセスが楽しみになる事もなかなか理解されにくいのではないでしょうか。