「テツドウモケイの買い物」で思うこと

今回は買い物をしていてふと思ったことから。
「鉄道模型を買う」といえば私がこの趣味に入った昭和50年前後の頃は99パーセントが「町内の模型屋さん」での購入を指していました。
あの当時は科学教材社が「工作ガイドブック」という「有料の通販カタログ」みたいなのを出していたので「通販」という概念はあったのですが、在庫検索に手間がかかること(全てが郵便でのやり取りですから無理はないのですが)商品代のほかに送料がかかることなどの問題があり(当時は安売り店というものはありませんでした)あまり一般的な購入法とは言えなかったと思います。
今は通販も花盛りで昔の製品などもオクを使う事であの頃に比べると飛躍的に鉄道模型の入手はしやすくなっていると思います。
ですが私の場合、不思議なことにこれらの入手法は「どうしてもという場合の最終手段」という位置づけになってしまっています。

私の現住地は模型店は一軒だけ。専門店はクルマで片道30分はかかる(しかも田舎の信号もそんなにないルートで)という環境にあります。
中古ショップは比率から言えば他の地域より多い方なので救われていますが、それでも秋葉並みというわけにはいきません。
これほど不便な環境ならば通販をもっと活用しそうなものですが、なかなかそうしないのが不思議なところです。

更に不思議なのはたとえば、これが子供の玩具とか家族の聴きたがっているCDとかなら実にためらわずに通販を使っていることです。
自分にそれほど興味のないものならあっさりとネット通販にしてしまう訳ですからやり方が分からないとか利便性を理解していないという訳でもないようです。
これは思うにいつのまにか「趣味の品は足で買う」という習慣がいつの間にか染み付いてしまっている事と関係ありそうです。
鉄道模型とはかつては家から出ないインドア趣味の極北とされてきました。それがNゲージの普及による一般化をきっかけに安売り店の出現、中古おショップの全国展開化などがすすみ、買い物ひとつとっても「外へ飛び出したほうが実りが多い」状態になってきたように思います。
もちろん同じ事はネット通販でも可能ですがそこに感じるのは「情報で買う」という感覚であり、外で買う場合の「出会いを買う」「手にとって買う」というアナログな要素が著しく不足しているように感じます。
新製品の場合もこれは同じ事で写真やスペックという情報だけに頼って高額なモデルを盲買いするのには幾分不安を感じることもあります。

そこで思い出したのが寺田寅彦が「丸善と三越」という随筆で三越での買い物について書いていた以下の一節です。
「~食堂のほかには食品を販売する部が階下にある。人によると近所の店屋で得られると同じかんづめなどを、わざわざここまで買いに来るということである。買い物という行為を単に物質的にのみ解釈して、こういう人を一概に愚弄する人があるが、自分はそれは少し無理だと思っている」
なんとなくこの心理は私にも少し当てはまりそうです。
趣味の買い物という行為には「探索」「探検」という側面もあると思います。これは自分の足を駆使して得られる快感ではないかと思います。
最近新設されている郊外型のショッピングモールの大半が「客を歩かせる・回遊させる」ことでその楽しみを味わわせる演出をしている事でもこの仮説は裏書きされます。
古くから存在する銀座のような繁華街では「銀ブラ」という趣味が成立する程にそうした「探索性」が維持されている事で一層栄えてきたのではないかと思えます。
ましてや秋葉原のようにジャンルの専門性が高いところに「歩き回ることで掘り出し物を見つける楽しみ」がある一角ではこれはなお更でしょう。

これは家から一歩も出ずにネット上での情報のやり取りだけで行うネットサーフィンでは不可能な事だと思います。
あくまで肉体を使った探索であることが重要ですから
この心理は中古ショップなどに見え始めている「鉄道模型の骨董化」も関係あると思います。骨董品ほどネット通販やネットオクに向いていないジャンルはありません。
(写真は本題とは関係ありません)
HPです。レイアウトの項で「モジュール」をオープンしました。
光山鉄道管理局

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この記事へのコメント
容易過ぎるので面白くないですし,無鉄砲になりがちでして(笑)。
現物を目にして悩んで悩んで買う。
現物を探して探して一喜一憂する。
実にアナログ的な発想ですが(笑)これが楽しいですし
我々には染み付いた感覚なのだと思います。
骨董感覚も人とは違う目で解釈すれば,安い物でも
十分に自分には良い物を手に入れた満足感は,ありますよね。
私の中ではオクやネットショップは「どうしても見つからない場合の最終手段」に近い物がありますね(笑)
とはいえ、そういうものの比率は依然として多いのですが。
バカな話かもしれませんがあるものを探しにあちこちの店を駆け回った事も一度や二度ではありません。効率性を考えると「骨折り損のくたびれもうけ」そのものなのですが、それでも行為自体にあまり徒労感を感じないのはやはり「過程そのものも楽しみの一部になっている」という側面もあるからではないかと思えます。
「骨董感覚」そのものについてはいずれ別な形でまとめてみたいと考えています。実はそれを考えさせられる随筆というのを以前読んで感銘を受けた事がありますので