「二笑亭奇談」に感じること・2・レイアウトと関連して

先日の続きです。
今回は二笑亭の話をレイアウトに当てはめてみた時に思った事を。
以前から折に触れて書いている事ですが、レイアウトは他のモデルに比べると造り手の内面が表出しやすい題材だと思います(もちろん確固としたプロトタイプを模倣する場合はこの限りではない場合もあると思いますが)
言い換えればレイアウトとはその99パーセントまでが「ビルダーの頭の中の空想に肉体が与えられたもの」とも言える訳です。
その中では実際の世界の様な整合性が得られない場合が多いと思います。
「行き止まりの階段」「無意味に立っている煙突」「奥行ゼロの押し入れ」「どこからも丸見えの便所」
これらは二笑亭の異様さを表現する時の例えによく使われる例えですがそれぞれの主語を入れ替えるといくつかは必ずレイアウトの表現に共通する物があります。
「無意味な側線」「行き止まりの路地」「奥行が極端に少ない民家」「どちらが北かわからない建物配置」「異様に変形した山、川」etc・・・

でも実際にレイアウトを眼にするとそうした整合性の無さが気になるケースはあまりないと思います。
それは総体としてのレイアウトのモチーフが統一されていると同時にビルダーの感性が見る者の共感を得ているからとも言えます。
実際、過去に傑作扱いされているレイアウトにはよく見ると風景としての整合性が取れていない物がけっこうありますし。それにレイアウトの場合はスペースや線路配置などの物理的な制限事項が多いのでそれに合わせるために整合性をあえて無視する事も多い筈です。
更に言うならそうしたレイアウトでは作り手の心の中に心理的な歯止めが掛かりやすいというのもありそうです。

ですが二笑亭の様に作り手の感性に歪みがあったり、余りにも独り善がりすぎると(技術の上手下手とは別の次元で)異形性が前面に出たレイアウトが現出すると言う事もあり得そうです。
これは上述した「特有の制限事項の少ない大レイアウト」ではより大きく表出されそうな所ではないでしょうか。
いや、ひょっとしたらそういうレイアウトなりジオラマなりが私たちに知られていないと言うだけで実は既に存在しているかもしれない。
そうしたレイアウトの存在を否定するものではないのですが、もしそういうのがあれば一度観てみたい気もするのです。「整合性を無視してまで徹底的に自己の感性のみを最優先させて作られた風景の具象化」としてのレイアウト。
そこにはリアルとか、プロトタイプ主義とは別次元で(良かれ悪しかれ)何か突き抜けた物が見られそうな予感もするのです。
尤も、二笑亭の様に異形性が前面に出すぎたものでも困りますが。

そう思うと二笑亭というのも単なるお化け屋敷を通り越した存在意義があったと感じられます。
ある人には「理想像」として、またある人には「反面教師」として(笑)
これはレイアウトビルダーに限らず創作的な事をするあらゆる人たちに共通する認識ではないでしょうか。
(写真は本題と関係ありません)
光山鉄道管理局
HPです。

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