レイアウトの嗜好に思う「都会といなか」のはなし
蒸し暑い夜にブログを打ちながらふと思った事から。
私がこのブログを打っている脇には電気街のセクションが鎮座しております。
前々から触れている事ですが、田圃の真中に家がある様な田舎の住まいなので窓の外は真っ暗に近い事が多く、その寂寥感たるや特に冬場は堪える事があります。
そんな真夜中にブログを打った後、視線を横にずらすと電気街の賑わいの景色。視点の高さも適度で(椅子に座っての高さは感覚的にはビルの5階位)自分自身もが風景の一部になったような気になります。
列車を走らせる事は案外少ないのですが、静かすぎるいなかの中にあって、自分の今いる環境と正反対の(仮想)風景、都会風の繁華な風景を手元に置いているという点でこれは私にとってはそれなりに慰安になります。
これは恐らく都会暮らしの方にはあまり理解できない感覚かもしれません。
そういえば、以前読んだ寺田寅彦の随筆にこういうのがありました。
今日いわゆるギンブラをする人々の心はさまざまであろうが、そういう人々の中の多くの人の心持ちには、やはり三十年前の自分のそれに似たものがあるかもしれない。
みんな心の中に何かしらある名状し難い空虚を感じている。銀座ぎんざの舗道を歩いたらその空虚が満たされそうな気がして出かける。
ちょっとした買い物でもしたり、一杯の熱いコーヒーでも飲めば、一時だけでもそれが満たされたような気がする。しかしそんなことでなかなか満たされるはずの空虚ではないので、帰るが早いか、またすぐに光の町が恋しくなるであろう。
いったいに心のさびしい暗い人間は、人を恐れながら人を恋しがり、光を恐れながら光を慕う虫に似ている。自分の知った範囲内でも、人からは仙人のように思われる学者で思いがけない銀座の漫歩を楽しむ人が少なくないらしい。
考えてみるとこのほうがあたりまえのような気がする。
日常人事の交渉にくたびれ果てた人は、暇があったら、むしろ一刻でも人寰(じんかん)を離れて、アルプスの尾根でも縦走するか、それとも山の湯に浸って少時の閑寂を味わいたくなるのが自然であろう。
心がにぎやかでいっぱいに充実している人には、せせこましくごみごみとした人いきれの銀座を歩くほどばからしくも不愉快なことはなく、広大な山川の風景を前に腹いっぱいの深呼吸をして自由に手足を伸ばしたくなるのがあたりまえである。
F屋喫茶店にいた文学青年給仕のM君はよく、銀座なんか歩く人の気が知れないと言っていたが、考えてみれば誠にもっとも至極なことである。
(「銀座アルプス」から。これは青空文庫でも読む事ができます)
なるほど、もし私が都会で暮らしていたら田舎の風景をレイアウトにしたがったかもしれません。
それを思う時、専門誌上に顕わされるレイアウトの大半がひなびたローカル風景であるという事実に鉄道模型という趣味が大都市部に偏在している現状を連想せざるを得ません。
土地や家が安く、レイアウトに踏み出しやすい環境でありながら専門店や同好の士の少なさからレイアウト自体が普及しにくい「いなか」
金もあり専門店(どころか「専門店街」にすらある)やイベントに恵まれているにもかかわらずそれ以外の環境の問題からレイアウト(特に大レイアウト)に踏み出しにくくレンタルレイアウトで憂さを晴らす現状の「とかい」
正にイソップ童話の「街のネズミと田舎のネズミ」そのものです。
ネットの普及でコミュニケーションや買い物については相互の差はかなり埋まってきているとは思うものの絶対的な条件の差は未だに大きいと思えます。
私の立場から言えば同好の士と直接顔を合わせての交流が比較的容易な分、都会のファンの方が趣味を深めやすい環境なのではないかと思えますが…
その一方で田舎には田舎なりのメリットも結構ありますし、私自身がそれを享受できている部分もあるのですが。
いずれにしても人間という生き物は自分とは異なる環境や風俗に憧れや理想や、あるいはファンタジーを求める物らしいですね。
光山鉄道管理局
HPです。7月30日、微妙に更新しました。
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前々から触れている事ですが、田圃の真中に家がある様な田舎の住まいなので窓の外は真っ暗に近い事が多く、その寂寥感たるや特に冬場は堪える事があります。
そんな真夜中にブログを打った後、視線を横にずらすと電気街の賑わいの景色。視点の高さも適度で(椅子に座っての高さは感覚的にはビルの5階位)自分自身もが風景の一部になったような気になります。
列車を走らせる事は案外少ないのですが、静かすぎるいなかの中にあって、自分の今いる環境と正反対の(仮想)風景、都会風の繁華な風景を手元に置いているという点でこれは私にとってはそれなりに慰安になります。
これは恐らく都会暮らしの方にはあまり理解できない感覚かもしれません。
そういえば、以前読んだ寺田寅彦の随筆にこういうのがありました。
今日いわゆるギンブラをする人々の心はさまざまであろうが、そういう人々の中の多くの人の心持ちには、やはり三十年前の自分のそれに似たものがあるかもしれない。
みんな心の中に何かしらある名状し難い空虚を感じている。銀座ぎんざの舗道を歩いたらその空虚が満たされそうな気がして出かける。
ちょっとした買い物でもしたり、一杯の熱いコーヒーでも飲めば、一時だけでもそれが満たされたような気がする。しかしそんなことでなかなか満たされるはずの空虚ではないので、帰るが早いか、またすぐに光の町が恋しくなるであろう。
いったいに心のさびしい暗い人間は、人を恐れながら人を恋しがり、光を恐れながら光を慕う虫に似ている。自分の知った範囲内でも、人からは仙人のように思われる学者で思いがけない銀座の漫歩を楽しむ人が少なくないらしい。
考えてみるとこのほうがあたりまえのような気がする。
日常人事の交渉にくたびれ果てた人は、暇があったら、むしろ一刻でも人寰(じんかん)を離れて、アルプスの尾根でも縦走するか、それとも山の湯に浸って少時の閑寂を味わいたくなるのが自然であろう。
心がにぎやかでいっぱいに充実している人には、せせこましくごみごみとした人いきれの銀座を歩くほどばからしくも不愉快なことはなく、広大な山川の風景を前に腹いっぱいの深呼吸をして自由に手足を伸ばしたくなるのがあたりまえである。
F屋喫茶店にいた文学青年給仕のM君はよく、銀座なんか歩く人の気が知れないと言っていたが、考えてみれば誠にもっとも至極なことである。
(「銀座アルプス」から。これは青空文庫でも読む事ができます)
なるほど、もし私が都会で暮らしていたら田舎の風景をレイアウトにしたがったかもしれません。
それを思う時、専門誌上に顕わされるレイアウトの大半がひなびたローカル風景であるという事実に鉄道模型という趣味が大都市部に偏在している現状を連想せざるを得ません。
土地や家が安く、レイアウトに踏み出しやすい環境でありながら専門店や同好の士の少なさからレイアウト自体が普及しにくい「いなか」
金もあり専門店(どころか「専門店街」にすらある)やイベントに恵まれているにもかかわらずそれ以外の環境の問題からレイアウト(特に大レイアウト)に踏み出しにくくレンタルレイアウトで憂さを晴らす現状の「とかい」
正にイソップ童話の「街のネズミと田舎のネズミ」そのものです。
ネットの普及でコミュニケーションや買い物については相互の差はかなり埋まってきているとは思うものの絶対的な条件の差は未だに大きいと思えます。
私の立場から言えば同好の士と直接顔を合わせての交流が比較的容易な分、都会のファンの方が趣味を深めやすい環境なのではないかと思えますが…
その一方で田舎には田舎なりのメリットも結構ありますし、私自身がそれを享受できている部分もあるのですが。
いずれにしても人間という生き物は自分とは異なる環境や風俗に憧れや理想や、あるいはファンタジーを求める物らしいですね。
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この記事へのコメント
まさに仰っている通りと思います。
少し話は違いますが、住んでいる土地柄、冬に大雪になれば、「やっぱ暑くても夏がいい」と言い、暑い夏になれば「暑い・・・・寒くっても冬がいい」と言い、人間は結構わがままな生き物と自分でも感じます。(笑)
それと同じで、田舎の人が都会の風景に憧れる気持ちは、私も田舎在住ですから、十分に理解できますし、それが本能なのかも知れません。
コメント有難うございます。
返事が遅くなりました。すみません。
私の場合「田舎から田舎へ」という移転パターンでしかも帰省中に東京を経由するという条件も嗜好に影響していると思います。
とはいえ、何らかの形で憧れを持ち続けるというのは趣味の上でも大事なことのような気もします。