「鉄道ファンでない鉄道模型ファン」は存在するか?し得るのか?
昔のTMSを読んでいて触発された事から。
もう50年以上前の1962年のTMSバックナンバーが何冊か安く手に入り帰りの電車で読みふけっていたのですがその中のある話が目を引きました。
「鉄道ファンでない鉄道模型好き」という人種の登場がこれからの鉄道模型会の成熟には必要ではないかという、確かそんな内容のミキストだったと思います。
「鉄道模型嫌いの鉄道好き」だったら当時も今も結構いそうな気もしますが、「鉄道ファンでない鉄道模型好き」という人種も今となっては意外に潜在層が多いのではないかという気がしています。
とはいえ、これを読むまでは「鉄道模型が好きな人間なら鉄道も好きに決まっている」と漠然と思っていたのでそんな心の中に楔を打ち込まれた様な衝撃も感じました。
この論旨は元々は「最近の鉄道模型ユーザーが手を動かさなくなった」事に対する危惧からスタートしたものらしく、後の号ではそれを巡った軽い論争的なやり取りが掲載されています。
(実はこれにも驚きました。「50年前にそんな事が問題なら今の現状はどうなの!?」笑。ですが鉄オタのマナー問題といい、50年やそこいらで人間は進歩しない物らしい事を再認識させられました)
さて、これらについては読んでゆくうちに少し触発されましたので少し書いてみたいと思います。

そこに出ていたいくつかの文言を私の記憶に沿って再現して見ると
実物の鉄道が好きでそれを再現するためのモデルを作る人も確かに多いだろうが、何かを作る事に興味を持っている人の琴線にたまたま鉄道と言う対象があったがために鉄道模型マニアになったと言うタイプの人もあるはず。
ここで夫々が自分を振り返って見たら鉄道が好きで鉄道模型が好きなのか、あるいは「作る楽しみ」が興味の中心なのではないか?
鉄道ファンと鉄道模型ファンの唯一の違いは「何かを製作するかしないか」であり鉄道ファンが学究的ならば鉄道模型ファンの本質は「創造的」にあるのではないか。
(但し「集めるだけで作らないコレクター」は鉄道模型のファンと一緒にされるのは困る)
しかし「作る」と言う概念は時代とともに変化する。とにかくその個人独特の「よそでは売っていない物を作っていればそれは『作った』と解釈されても良いのではないか。
というのが最初の問題提起であり、これに対して暫く後の号で反論や意見がいくつか寄せられています。
そこでは
(上記の論旨は)模型ファンの本質を「作る」事だけに置く事は危険ではないか。なぜなら「工作の量や技術力だけがファンの位置の高さを図る基準」にされかねない。
昔と違って製作環境の進歩によって「工作」と言う概念が写真の現像や引きのばしと同じ様に容易にインスタント化されてきている。その中では製作者の持つ美的感覚やセンスが重要視されるのではないか。
特にレイアウトでは車両以上にそうした面が重視され将来は「駅も山もポイントもあります」と言うだけのレイアウトはナンセンスになると思われる。
そうなると車両を中心とした対象だけに興味のある実物ファンと模型ファンとが本質的に異なるのは明白である。
あるいは

鉄道ファンでない鉄道模型マニアが多ければ多いほど鉄道模型が発展するとは言い得ないのではないか。
明らかに基本的な考証の異なるモデルばかりで埋められるのが発展だろうか?
模型ファンの質が向上してくればその対象である実物の知識も要求されてくる。作るだけなら模型屋の職人こそが最も偉大なモデラーであろう。
鉄道模型が作るだけの趣味だというならレイアウトの運転はどうなのか。運転のために既成品を買い求めレイアウトの建設に助手を雇うのは鉄道模型ファンではないのだろうか。
確かこういう内容だったと思いますが(自分でもよく思い出せたなあとか思います)

最近の鉄道模型の世界の論争を眼にするとまさに上記の論のいくつかが拡大再生産されて論争されている様な印象すら受けます。
しかもこれは今から50何年か前のTMSの読者投稿やミキストの引用なのです。
50年前にこれほどの考えを持って開陳されているのを凄いと思うべきか、それとも鉄道模型ファンなんて50年経っても進歩がないと呆れるべきなのか、正直言って私にはわかりません。
それと時代的にこの問題提起に登場しにくいジャンルなのですが最近私の中で一つの潮流になっている「旧モデルのレストア」は「作るうちに入るのか?」と言うのも考えさせられる点だったりします。
レストアを入れるならこれらの論議を読んでみて自分に当てはめて見るなら私の中では実物ファンと模型ファンとの比率は6:4くらいかなとか思います。
上述の論議に出ている様にレイアウト作りがメインになって来ると車両工作はどうしても付随的になりがちですしそもそもちゃんとしたレイアウトを作るのに鉄道の知識しかなかったらおっつきません(笑)
何より技術の優劣で言うなら間違いなく私などは下位の方な筈ですし。

それにレイアウトやモジュールの製作に関する限りは「鉄道のある風景の再現」のために従来の鉄道マニアには思いもつかなかったセンスで作品をものにしているケースが増えているのです。
これらの大半は余程出来のいい物を除けば専門誌に露出する事は殆どありませんが、ちょっと自分の周りを歩き回って見れば意外とそうした物を目にする機会があるものです。どちらかと言えば出不精に属する田舎者の私の周囲でさえそうなのですから都市部ではその比率は更に高まるでしょう。
してみると50年後の今の目で観るなら「工作に対する興味」から鉄道模型に入り込んでくる層は増えていると思われますし底上げとまでは行かなくても鉄道模型ファンの層を幾分でも厚くはしているとは思います。
ただ、これが鉄道模型そのものの発展にどれくらい寄与しているかと言うとそこは未知数ですが。
ところで「手を使う工作」と言う概念の対極に「バーチャルリアリティ」と言うのがあると思いますがこれについても思った事があるのでこれについても近いうちに書いてみたいと思います。
それにしても昔のTMSは面白い。
談論風発、今でも見過ごされがちな事を発掘して考察、意見表明を重ねるスリリングさは今の専門誌全体に欠けているものですね。
光山鉄道管理局
HPです。

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もう50年以上前の1962年のTMSバックナンバーが何冊か安く手に入り帰りの電車で読みふけっていたのですがその中のある話が目を引きました。
「鉄道ファンでない鉄道模型好き」という人種の登場がこれからの鉄道模型会の成熟には必要ではないかという、確かそんな内容のミキストだったと思います。
「鉄道模型嫌いの鉄道好き」だったら当時も今も結構いそうな気もしますが、「鉄道ファンでない鉄道模型好き」という人種も今となっては意外に潜在層が多いのではないかという気がしています。
とはいえ、これを読むまでは「鉄道模型が好きな人間なら鉄道も好きに決まっている」と漠然と思っていたのでそんな心の中に楔を打ち込まれた様な衝撃も感じました。
この論旨は元々は「最近の鉄道模型ユーザーが手を動かさなくなった」事に対する危惧からスタートしたものらしく、後の号ではそれを巡った軽い論争的なやり取りが掲載されています。
(実はこれにも驚きました。「50年前にそんな事が問題なら今の現状はどうなの!?」笑。ですが鉄オタのマナー問題といい、50年やそこいらで人間は進歩しない物らしい事を再認識させられました)
さて、これらについては読んでゆくうちに少し触発されましたので少し書いてみたいと思います。

そこに出ていたいくつかの文言を私の記憶に沿って再現して見ると
実物の鉄道が好きでそれを再現するためのモデルを作る人も確かに多いだろうが、何かを作る事に興味を持っている人の琴線にたまたま鉄道と言う対象があったがために鉄道模型マニアになったと言うタイプの人もあるはず。
ここで夫々が自分を振り返って見たら鉄道が好きで鉄道模型が好きなのか、あるいは「作る楽しみ」が興味の中心なのではないか?
鉄道ファンと鉄道模型ファンの唯一の違いは「何かを製作するかしないか」であり鉄道ファンが学究的ならば鉄道模型ファンの本質は「創造的」にあるのではないか。
(但し「集めるだけで作らないコレクター」は鉄道模型のファンと一緒にされるのは困る)
しかし「作る」と言う概念は時代とともに変化する。とにかくその個人独特の「よそでは売っていない物を作っていればそれは『作った』と解釈されても良いのではないか。
というのが最初の問題提起であり、これに対して暫く後の号で反論や意見がいくつか寄せられています。
そこでは
(上記の論旨は)模型ファンの本質を「作る」事だけに置く事は危険ではないか。なぜなら「工作の量や技術力だけがファンの位置の高さを図る基準」にされかねない。
昔と違って製作環境の進歩によって「工作」と言う概念が写真の現像や引きのばしと同じ様に容易にインスタント化されてきている。その中では製作者の持つ美的感覚やセンスが重要視されるのではないか。
特にレイアウトでは車両以上にそうした面が重視され将来は「駅も山もポイントもあります」と言うだけのレイアウトはナンセンスになると思われる。
そうなると車両を中心とした対象だけに興味のある実物ファンと模型ファンとが本質的に異なるのは明白である。
あるいは

鉄道ファンでない鉄道模型マニアが多ければ多いほど鉄道模型が発展するとは言い得ないのではないか。
明らかに基本的な考証の異なるモデルばかりで埋められるのが発展だろうか?
模型ファンの質が向上してくればその対象である実物の知識も要求されてくる。作るだけなら模型屋の職人こそが最も偉大なモデラーであろう。
鉄道模型が作るだけの趣味だというならレイアウトの運転はどうなのか。運転のために既成品を買い求めレイアウトの建設に助手を雇うのは鉄道模型ファンではないのだろうか。
確かこういう内容だったと思いますが(自分でもよく思い出せたなあとか思います)

最近の鉄道模型の世界の論争を眼にするとまさに上記の論のいくつかが拡大再生産されて論争されている様な印象すら受けます。
しかもこれは今から50何年か前のTMSの読者投稿やミキストの引用なのです。
50年前にこれほどの考えを持って開陳されているのを凄いと思うべきか、それとも鉄道模型ファンなんて50年経っても進歩がないと呆れるべきなのか、正直言って私にはわかりません。
それと時代的にこの問題提起に登場しにくいジャンルなのですが最近私の中で一つの潮流になっている「旧モデルのレストア」は「作るうちに入るのか?」と言うのも考えさせられる点だったりします。
レストアを入れるならこれらの論議を読んでみて自分に当てはめて見るなら私の中では実物ファンと模型ファンとの比率は6:4くらいかなとか思います。
上述の論議に出ている様にレイアウト作りがメインになって来ると車両工作はどうしても付随的になりがちですしそもそもちゃんとしたレイアウトを作るのに鉄道の知識しかなかったらおっつきません(笑)
何より技術の優劣で言うなら間違いなく私などは下位の方な筈ですし。

それにレイアウトやモジュールの製作に関する限りは「鉄道のある風景の再現」のために従来の鉄道マニアには思いもつかなかったセンスで作品をものにしているケースが増えているのです。
これらの大半は余程出来のいい物を除けば専門誌に露出する事は殆どありませんが、ちょっと自分の周りを歩き回って見れば意外とそうした物を目にする機会があるものです。どちらかと言えば出不精に属する田舎者の私の周囲でさえそうなのですから都市部ではその比率は更に高まるでしょう。
してみると50年後の今の目で観るなら「工作に対する興味」から鉄道模型に入り込んでくる層は増えていると思われますし底上げとまでは行かなくても鉄道模型ファンの層を幾分でも厚くはしているとは思います。
ただ、これが鉄道模型そのものの発展にどれくらい寄与しているかと言うとそこは未知数ですが。
ところで「手を使う工作」と言う概念の対極に「バーチャルリアリティ」と言うのがあると思いますがこれについても思った事があるのでこれについても近いうちに書いてみたいと思います。
それにしても昔のTMSは面白い。
談論風発、今でも見過ごされがちな事を発掘して考察、意見表明を重ねるスリリングさは今の専門誌全体に欠けているものですね。
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この記事へのコメント
ただ
間違った探究心が蔓延っているせいで
メーカーの製造コスト意識に対する理解が全くなく
模型店や量販店の店員に『あーだこーだ』と言い出す
ハッキリ言って××(自主規制)な連中がここのところ散見されます
形状の違いを店員に言ったところで『リアルな形状に変化するはずもない』訳ですよ
いつも言うところの
『俺はこれだけ知っているんだ』感を市井でアピールしたって何もないんですよ
興味のない一般人は『ああ、ちょっと変な奴が店員に食い下がっているんだ』という風にしか
見ないわけですよ
模型に限ったことでなく
これが『間違いだらけブーム』の実態・真実なんです
鉄道趣味なんて他人にひけらかすものじゃない
自分だけで満足することの理解がないんです
私にとっても少々耳の痛い話です。自重しなくては(汗)
店頭で実物や模型の知識の開陳をやりたくなる気持ちもわからないではないのですがやはりそこは程度の問題でしょうね。
そういうと憤慨される方もいらっしゃるでしょうが、まあいいじゃないですか、人には人それぞれの楽しみ方があるんですから。
TMSが面白かったのは故山崎氏のおかげでしょうか。
しかし、211号から所持してますが、紙面構成はずっと同じですね。
私などは中断期間の20年間「TMSを読んでいるだけ」だったりするのでまさに「読むだけファン」に該当しますね(笑)
TMSではありませんが確か水野良太郎氏が著書の中で「読むだけのファンがいてもいいのではないか」と言う意味の事を書かれていたと思います。
今回の論争の背景には当時も今もTMSが「作る模型、作る趣味」を中心に置いていた事があると思います。
「集めるだけで作らないコレクター~」のくだりですが当時はコレクターと言う人種に金持ちが多かった事への反発の様な物もあったのではないでしょうか。
仰る様に人それぞれ、但し相互の嗜好はある程度尊重する態度は必要ではないかと思いますね。