「飾るテツドウモケイ」に思うこと
先日入手した天賞堂のED75に思った事から。
以前、最近の鉄道模型の傾向について書いた時、「そこまで細密に拘るならモーターもギアもいらないのではないか?ディスプレイ専用のモデルではいけないのか?」と言った意味の事を書いた事があります。
その時頭の中にあったのは40年以上前に亡父が買っていた「ディスプレイ用のD51のラージスケールモデル」でした。
このD51、細密な事は細密ですし押して転がせばロッドのアクションを見る事も出来ます。
何より自走を前提としていないのでキャブや配管に関しては実物との矛盾もごく少なく、眺めている分には十分な出来と思います。
ですが私にとっての鉄道模型と言うのはやはり「走らせて楽しむ」「自走している所を眺められる」所に大きなプライオリティがあります。
特にNゲージのモデルを飾って楽しむというのはレイアウトやセクションと組み合わせて立体的に眺めるならともかく単体で飾るだけというのは決して面白いものではありません。
その点で言えば個人的にはHOや16番は飾って楽しめるぎりぎりの下限のサイズではないかと考えています。
ディスプレイ前提であればモデルといえども大きさは条件的に許される限り大きい方がいいのではないでしょうか。
これは観客に観られる事を前提に製作されている特撮映画のミニチュアと共通する認識でもあります。
(それも通称「ウサギ小屋」と海外から揶揄されていた日本の住宅事情に於いて、と言う但し書きがつきますが)
さて、今回入線した天賞堂のED75は正にそんな事を考えていた矢先に見つけたものです。
74年当時の主流のブラスボディにこれ又74年時点の完成品モデルとしては十分なレベルの細密化がされており今見てもその表情には惹かれるものがあります。
特にブラスボディの質感はプラ製の16番モデルとは異なる魅力を持っています。
ですがこのED75、モータもギアも付いていません。
運転派の立場としては重連用と捉えるのが妥当ですが単に飾って楽しむ事に徹しても問題はありません。
飾る上で強いて引っかかる点を上げるなら線路幅が実物準拠でない(要は13ミリゲージでない)位でしょうか。
実際、今このED75はうちの食器棚(笑)の中でTOMIXのED75と繋がって飾られています。
同じ様にして同じ天賞堂のC52とか宮沢のC54とかも飾られているのですが、それらのモデルに比べてこのED75を飾るのに心理的な抵抗を感じない事に気付きました。
他の16番モデルだとただ飾られているのを見ていると「せっかくモータやギアが付いているのに何だか勿体ない」気がしてくるのです。
もっと情緒的に言うなら「棚の中でこれらのロコが『走りたい、走りたい』と叫んでいる」様な気にすらなる事があります。
特にその声がよく聞こえるのは昨年走行系をレストアしたばかりのエンドウのEB10とか水野のDD13とかの「走らせるモデル」だったりします(汗)
その点今回のED75は自走する機構がないせいか飾る上で何の言い訳もないのです。
まあ、実際には重連させれば普通のモデル同様にHOの線路を走る訳ですから不思議と言えば言えますが。
それでいてボディの造形に関しては完全にスケールモデルの文法で作られていますから40年前のモデルでありながらそこそこ細密を楽しむ事も出来ます。
時折これを眺めていると、いい意味で模型と言うより一種の工芸品、芸術品を鑑賞している気分になります。
どうかするとモデルを眺めているだけで一種の感動すら感じる事すらあります。
同じ事をKATOの16番仕様のC56やクモハ40なんかでやってもそこまでの感動が無いのですが、天賞堂や細密度で劣るはずの40年前の宮沢のモデルにはそれがあります。
(実はこの点が模型メーカーとしてのKATOの問題点として今後クローズアップされる所ではないかと個人的には考えています)
おそらくこれらのメーカーのモデルは単に細密なのではなく実車の印象を強めるためのディフォルメが普通には気付かれないほどに巧みなのだろうと思います。
そしてその要素は特に個人が買うディスプレイモデルにはある程度必要な要素なのではないでしょうか。
これは例えば同様にディスプレイ目的で買われるミニカーなどと共通なものではないかと思います。
そしてそうしたツボが押さえられているならば、もはや機関車モデルであってもモータやギアは要らないのではないか、飾る事に特化した鉄道模型でいいのではないかと思えます。
今回の天賞堂ED75で強く感じたのはその点でした。
とはいえ、私にとっての鉄道模型の本質が「走らせて楽しむ事」にあるという点には変わりはありません。
飾って楽しむ方向性は私の中では傍流であり続けるだろうとも思いますし。
ただ、特にNゲージの場合ですが「細密度で劣る筈の一部のモデルがレイアウト上で走らせると非常に魅力的に見える」事もままある事は今回の「飾る16番モデルで感じた事」とは表裏一体の事象だと思います。
つまり「飾るためのモデルと走らせるためのモデルではモデル造形の文法自体が本来異なるのではないか」と言うことでもあるのですがこれについては追々考察して見たいと思います。
光山鉄道管理局
HPです。
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以前、最近の鉄道模型の傾向について書いた時、「そこまで細密に拘るならモーターもギアもいらないのではないか?ディスプレイ専用のモデルではいけないのか?」と言った意味の事を書いた事があります。
その時頭の中にあったのは40年以上前に亡父が買っていた「ディスプレイ用のD51のラージスケールモデル」でした。
このD51、細密な事は細密ですし押して転がせばロッドのアクションを見る事も出来ます。
何より自走を前提としていないのでキャブや配管に関しては実物との矛盾もごく少なく、眺めている分には十分な出来と思います。
ですが私にとっての鉄道模型と言うのはやはり「走らせて楽しむ」「自走している所を眺められる」所に大きなプライオリティがあります。
特にNゲージのモデルを飾って楽しむというのはレイアウトやセクションと組み合わせて立体的に眺めるならともかく単体で飾るだけというのは決して面白いものではありません。
その点で言えば個人的にはHOや16番は飾って楽しめるぎりぎりの下限のサイズではないかと考えています。
ディスプレイ前提であればモデルといえども大きさは条件的に許される限り大きい方がいいのではないでしょうか。
これは観客に観られる事を前提に製作されている特撮映画のミニチュアと共通する認識でもあります。
(それも通称「ウサギ小屋」と海外から揶揄されていた日本の住宅事情に於いて、と言う但し書きがつきますが)
さて、今回入線した天賞堂のED75は正にそんな事を考えていた矢先に見つけたものです。
74年当時の主流のブラスボディにこれ又74年時点の完成品モデルとしては十分なレベルの細密化がされており今見てもその表情には惹かれるものがあります。
特にブラスボディの質感はプラ製の16番モデルとは異なる魅力を持っています。
ですがこのED75、モータもギアも付いていません。
運転派の立場としては重連用と捉えるのが妥当ですが単に飾って楽しむ事に徹しても問題はありません。
飾る上で強いて引っかかる点を上げるなら線路幅が実物準拠でない(要は13ミリゲージでない)位でしょうか。
実際、今このED75はうちの食器棚(笑)の中でTOMIXのED75と繋がって飾られています。
同じ様にして同じ天賞堂のC52とか宮沢のC54とかも飾られているのですが、それらのモデルに比べてこのED75を飾るのに心理的な抵抗を感じない事に気付きました。
他の16番モデルだとただ飾られているのを見ていると「せっかくモータやギアが付いているのに何だか勿体ない」気がしてくるのです。
もっと情緒的に言うなら「棚の中でこれらのロコが『走りたい、走りたい』と叫んでいる」様な気にすらなる事があります。
特にその声がよく聞こえるのは昨年走行系をレストアしたばかりのエンドウのEB10とか水野のDD13とかの「走らせるモデル」だったりします(汗)
その点今回のED75は自走する機構がないせいか飾る上で何の言い訳もないのです。
まあ、実際には重連させれば普通のモデル同様にHOの線路を走る訳ですから不思議と言えば言えますが。
それでいてボディの造形に関しては完全にスケールモデルの文法で作られていますから40年前のモデルでありながらそこそこ細密を楽しむ事も出来ます。
時折これを眺めていると、いい意味で模型と言うより一種の工芸品、芸術品を鑑賞している気分になります。
どうかするとモデルを眺めているだけで一種の感動すら感じる事すらあります。
同じ事をKATOの16番仕様のC56やクモハ40なんかでやってもそこまでの感動が無いのですが、天賞堂や細密度で劣るはずの40年前の宮沢のモデルにはそれがあります。
(実はこの点が模型メーカーとしてのKATOの問題点として今後クローズアップされる所ではないかと個人的には考えています)
おそらくこれらのメーカーのモデルは単に細密なのではなく実車の印象を強めるためのディフォルメが普通には気付かれないほどに巧みなのだろうと思います。
そしてその要素は特に個人が買うディスプレイモデルにはある程度必要な要素なのではないでしょうか。
これは例えば同様にディスプレイ目的で買われるミニカーなどと共通なものではないかと思います。
そしてそうしたツボが押さえられているならば、もはや機関車モデルであってもモータやギアは要らないのではないか、飾る事に特化した鉄道模型でいいのではないかと思えます。
今回の天賞堂ED75で強く感じたのはその点でした。
とはいえ、私にとっての鉄道模型の本質が「走らせて楽しむ事」にあるという点には変わりはありません。
飾って楽しむ方向性は私の中では傍流であり続けるだろうとも思いますし。
ただ、特にNゲージの場合ですが「細密度で劣る筈の一部のモデルがレイアウト上で走らせると非常に魅力的に見える」事もままある事は今回の「飾る16番モデルで感じた事」とは表裏一体の事象だと思います。
つまり「飾るためのモデルと走らせるためのモデルではモデル造形の文法自体が本来異なるのではないか」と言うことでもあるのですがこれについては追々考察して見たいと思います。
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この記事へのコメント
ディスプレイモデルである鉄コレでも、大抵の形式がオプションの動力ユニットで走行可能になりますから。
フジミの雪ミク電車など、本来はディスプレイ専用の物でも動力化する人は多いですね(^O^)
ディスプレイ専用のプラモデルを動力化するのは70年代の16番でも一時期定番でしたね。特にEF58等の電気機関車系に多かったようです。
私もディスプレイ用の食玩の動力化をやって見た事がありますがNゲージサイズの場合、走らせた時の感動がたまらなかったです(笑)
とはいえ、ディスプレイ専用モデルにも(特に正確性に於いて)それなりに魅力がある事も否めません。その辺りがジャンルとしての鉄道模型の難しさとも言えます。