中古モデルを見ていて「幻談」を思い出すはなし

 私のここ数年の傾向として、車両の何割か、HO用の建造物はほぼ全てが中古モデルでの購入になっています。
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 この種の中古モデルの魅力が古き佳き(実際がそうだったとは限りませんが)時代の素朴な雰囲気にもあるのはある程度年季の入った方ならお分かりいただけるのではないかと思います。
 まあ、私の場合「子供の頃の買えなかったモデルへの敵討ち」みたいな側面もある気がするのですが。
 (それゆえ運転会にこの手のモデルを持ち込むと他のメンバーの方々は「飛び道具」と揶揄して下さいます笑)
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 ですがこういう買い方が続くと「前のユーザーの顔」が何となく見える気がするのがひとつの魅力になっている感じもします。
 同じ形式、同じモデルでもこと中古の旧製品となるとコンディションは千差万別。
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 新品同様で後付けパーツの殆ど無い(アメリカの中古車市場ではこういうのを「クリーム」と呼ぶそうですが)もあれば前ユーザーの酷使の果てに持ち込まれたくたびれまくったモデル(同じくこういうのは「レモンカー」と呼称されるそうです)まで。
 最近の様に新品状態での完成度が上がって来ると「如何に手垢が付いていないか」が中古モデルの買い取り指標みたいになってしまい「買うときから下取り(カッコよく言えば「プレミア」を考える様になる」という模型趣味としては本末転倒な現象まで起きています。

 ですがこの手の旧モデルを眺めたりいじったりするとそうした前のユーザーの技量とは別に思い入れや愛情が透けて見える気がすることがあります。
 それらの模型が持っていた履歴というかストーリーが浮かぶ様なモデルはコンディションが多少悪くても案外悪い気がしません。
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 先日のガーダー橋なんかは手に取っていている内に「前ユーザーのプロファイリングごっこ」までやらかしそうで怖くなりました。
 (シャーロックホームズの読み過ぎか?)
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 そこでふと思い出したのが幸田露伴の「幻談」と言う小説です。

 ここでは釣りが題材なのですが、江戸時代に海釣りに出たとある侍と船頭がたまたま出会った溺死人の手から取り上げた釣竿を見てその人の釣りへの思い入れや考えの深さを推定するというはなしです。
 こう書いてしまうと全く持って面白みのない文ですが、これは私の文章が多分に即物的だからで、実際の本文は実に薫り高い語り口で歌の様にすらすらと、それでいて含蓄を感じさせる作品です。

 一部を引用すると

 「随分稀めずらしい良い竿だな、そしてこんな具合の好い軽い野布袋(のぼてい)は見たことがない。」
 「そうですな、野布袋という奴は元来重いんでございます、そいつを重くちゃいやだから、それで工夫をして、竹がまだ野に生きているうちに少し切目なんか入れましたり、痛めたりしまして、十分に育たないように片っ方をそういうように痛める、右なら右、左なら左の片方をそうしたのを片(かた)うきす、両方から攻める奴を諸(もろ)うきすといいます。そうして拵しらえると竹が熟した時に養いが十分でないから軽い竹になるのです。」
「それはお前俺(おれ)も知っているが、うきすの竹はそれだから萎なびたようになって面白くない顔つきをしているじゃないか。これはそうじゃない。どういうことをして出来たのだろう、自然にこういう竹があったのかなア。」
(中略)

 二人はだんだんと竿に見入っている中うちに、あの老人が死んでも放さずにいた心持が次第に分って来ました。

 「どうもこんな竹はここいらに見かけねえですから、よその国の物か知れませんネ。それにしろ二間の余もあるものを持って来るのも大変な話だし。浪人の楽な人だか何だか知らないけれども、勝手なことをやって遊んでいる中に中気が起ったのでしょうが、何にしろ良い竿だ」と吉はいいました。

 「時にお前、蛇口を見ていた時に、なんじゃないか、先についていた糸をくるくるっと捲まいて腹のどんぶりに入れちゃったじゃねえか。」

 「エエ邪魔っけでしたから。それに、今朝それを見まして、それでわっちがこっちの人じゃねえだろうと思ったんです。」

 「どうして。」

 「どうしてったって、段々細だんだんぼそにつないでありました。段々細につなぐというのは、はじまりの処が太い、それから次第に細いのまたそれより細いのと段々細くして行く。
 この面倒な法は加州(かしゅう)やなんぞのような国に行くと、鮎(あゆ)を釣るのに蚊鉤(かばり)など使って釣る、その時蚊鉤がうまく水の上に落ちなければまずいんで、糸が先に落ちて後あとから蚊鉤が落ちてはいけない、それじゃさかなが寄らない、そこで段々細の糸を拵えるんです。
 どうして拵えますかというと、はさみを持って行って良い白馬の尾の具合のいい、古馬にならないやつのを頂戴して来る。
 そうしてそれを豆腐の粕(かす)で以て上からぎゅうぎゅうと次第にこく。
 そうすると透き通るようにきれいになる。
 それを十六本、右撚よりなら右撚りに、最初は出来ないけれども少し慣れると訳なく出来ますことで、片撚(かたより)に撚る。そうして一つ拵える。
 その次に今度は本数を減らして、前に右撚りなら今度は左撚りに片撚りに撚ります。
 順々に本数をへらして、右左をちがえて、一番終(しま)いには一本になるようにつなぎます。

 あっしあ加州の御客に聞いておぼえましたがネ、西の人はかんがえがこまかい。それが定跡です。

 この竿は鮎をねらうのではない、テグスでやってあるけれども、うまくこきがついて順減らしに細くなって行くようにしてあります。
 この人も相当に釣に苦労していますね、切れる処を決めて置きたいからそういうことをするので、岡釣じゃなおのことです、
何処(どこ)でも構わないでぶっ込むのですから、ぶち込んだ処にかかりがあれば引ひっかかってしまう。
 そこで竿をいたわって、しかも早く埒の明あくようにするには、竿の折れそうになる前に切れ処から糸のきれるようにして置くのです。
 一番先の細い処から切れる訳だからそれを竿の力で割出わりだしていけば、竿に取っては怖いことも何もない。
 どんな処へでもぶち込んで、引ひっかかっていけなくなったら竿は折れずに糸が切れてしまう。あとはまた直ぐ鉤はりをくっつければそれでいいのです。
 この人が竿を大事にしたことは、上手に段々細にしたところを見てもハッキリ読めましたよ。
 どうも小指であんなに力を入れて放さないで、まあ竿と心中したようなもんだが、それだけ大事にしていたのだから、無理もねえでさあ。」

などと言っている中うちに雨がきれかかりになりました。

(以上引用終わり)


 鉄道模型と釣りを比べてこういう文を書くのに無理がある事は承知の上ですが、道楽の本質の捉え方としては共通する面もあるのではないかと思えます。
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 話を戻すと前ユーザーがラフに扱ったモデルは車体を見ると知れますし、逆にモデラーの思い入れが強すぎて空回りしてしまった様なモデル、特にこれと言って手を加えていないのにかなり走り込まれたと思われるモデル、
 最近ではある種のプレミアモデルにユーザーが驚きの改造をやっていた物までまみえたりもします。

 こういうのに出会うとなんだかほんわかした気持ちになれるのがこの手の中古モデルのご利益かもしれません。
 (ですがこれって完全に「骨董趣味」のノリですね)

 そしてそれらの様々な履歴を持った車両たちが「レイアウトの上では一堂に走りまわれる」というのは21世紀の鉄道模型ゆえの楽しみであり魅力になっているのではないかと思います。 

 なお
「幻談」は青空文庫で購読可能なので興味をお持ちの向きはお読みください。
光山鉄道管理局
 HPです。

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