「鉄道の街」と「物資部」の思い出
今回は思い出ばなしから。
このブログで折に触れて紹介している機関士の親類の現役時代の住まいは、盛岡機関区や国鉄盛岡工場に隣接している国鉄アパートでした。
「アパート」とは言いますが、実際には4、5階建てで一棟当たり30世帯くらい入る大きなものでそれが数棟立ち並んでいるという下手な団地顔負けの規模でした。
更にそこに近接して居る一角には国鉄時代は鉄道病院(後にJR病院)があり、通りを挟んだ反対側には鉄道管理局の建物、近くには国労の支部の建物まで並んでいてさながら「鉄道の街」と言った趣を成していました。
盛岡駅の場合、駅前直ぐ近くに北上川、駅と機関区を挟んだ反対側を雫石川が流れておりこのふたつの川の合流点に挟まれる形で立地していたのですが、本来の市街地から隔離された辺縁部だったせいか、鉄道関連の施設だけで地域が形成されていた印象があります。そこでは近くの飲み屋街や商店街までもが国鉄職員とその家族ばかりを相手に商売していると言った感じでした。
私の幼少時はそこに遊びに行った折には夕方になると親類に連れられて買い物などに付き合った記憶があります。
その行先は大概の場合、国鉄アパートに隣接していた「物資部」と呼ばれるストアーでした(親類をはじめその同僚や家族などは「ぶっしぶ」とは呼ばず「ぶしぶ」と呼んでいましたが)
当時は国鉄職員や家族の福利厚生の一環として大きな駅や機関庫に隣接した官舎街の一角などにこうしたストアーを置いていたケースが多かったのですが、普通の商店街にあるスーパーマーケットとは少々違ったノリがあって印象に残っています。
雰囲気で言えば昔のアメ横に近いと言いますか、大きな木造平屋の建物の中に通路を隔てて区画された様々な売り場が庇を連ね、その間を多くの買い物客が行き交うという構造でした。建物の外観は普通のスーパーより古ぼけている上にあまり商売っ気が感じられず、商品なども割合雑然と陳列されていたのですが客(つまり国鉄職員やその家族)の数が意外なほど多く建物の見た目から想像できない位賑わっていました。
誰か部外者が予備知識なしで近くを通りかかったら、寂れた街のただの古ぼけた木造建築にしか見えないにも拘らず一歩中に入ると中の賑わいとの意外なギャップに驚かされたろうと思います。
そんな記憶もあって私の中では「機関区」とか「国鉄工場」とか言うとまず連想するのが機関庫でもターンテーブルでもなく「物資部の賑わい」になってしまいました。昭和40年代前半位までの国鉄の機関区の周辺は今とは比べ物にならない位に活気に溢れていましたが私にとって、それを最も手近に感じさせたのが「物資部」だったのです。
生憎当時の写真が手元になく、ネットで検索しても当時の物資部の賑わいを写真に収めた資料がなかなか見つかりません。ですからこうして拙い文章で雰囲気を伝えようとしても書きたいことの10分の1も表現できていないのがもどかしいです。
その物資部ですが昭和50年代中頃、新幹線の線路の敷設とそれに伴う区画整理の影響で懐かしい木造の建物は取り壊され、近代的なスーパー風の建物に建て替えられ名称も「ぶっしぶストアー」と変わりました。開店直後に1,2度行きましたが新しい建物は小奇麗にはなった物のそこいらのスーパー(雰囲気的には田舎の生協か農協ストアーに近い)と大して変わらなくなってしまっていてがっかりしたものです。
今ではその物資部自体がなくなり国鉄アパートや鉄道病院も取り壊され、跡地は広大な駐車場を備えたマックスバリューになってしまいました。当時のよすがを偲ぶものも殆ど残っていません。
(写真は本題とは関係ありません)
光山鉄道管理局
HPです。
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このブログで折に触れて紹介している機関士の親類の現役時代の住まいは、盛岡機関区や国鉄盛岡工場に隣接している国鉄アパートでした。
「アパート」とは言いますが、実際には4、5階建てで一棟当たり30世帯くらい入る大きなものでそれが数棟立ち並んでいるという下手な団地顔負けの規模でした。
更にそこに近接して居る一角には国鉄時代は鉄道病院(後にJR病院)があり、通りを挟んだ反対側には鉄道管理局の建物、近くには国労の支部の建物まで並んでいてさながら「鉄道の街」と言った趣を成していました。
盛岡駅の場合、駅前直ぐ近くに北上川、駅と機関区を挟んだ反対側を雫石川が流れておりこのふたつの川の合流点に挟まれる形で立地していたのですが、本来の市街地から隔離された辺縁部だったせいか、鉄道関連の施設だけで地域が形成されていた印象があります。そこでは近くの飲み屋街や商店街までもが国鉄職員とその家族ばかりを相手に商売していると言った感じでした。
私の幼少時はそこに遊びに行った折には夕方になると親類に連れられて買い物などに付き合った記憶があります。
その行先は大概の場合、国鉄アパートに隣接していた「物資部」と呼ばれるストアーでした(親類をはじめその同僚や家族などは「ぶっしぶ」とは呼ばず「ぶしぶ」と呼んでいましたが)
当時は国鉄職員や家族の福利厚生の一環として大きな駅や機関庫に隣接した官舎街の一角などにこうしたストアーを置いていたケースが多かったのですが、普通の商店街にあるスーパーマーケットとは少々違ったノリがあって印象に残っています。
雰囲気で言えば昔のアメ横に近いと言いますか、大きな木造平屋の建物の中に通路を隔てて区画された様々な売り場が庇を連ね、その間を多くの買い物客が行き交うという構造でした。建物の外観は普通のスーパーより古ぼけている上にあまり商売っ気が感じられず、商品なども割合雑然と陳列されていたのですが客(つまり国鉄職員やその家族)の数が意外なほど多く建物の見た目から想像できない位賑わっていました。
誰か部外者が予備知識なしで近くを通りかかったら、寂れた街のただの古ぼけた木造建築にしか見えないにも拘らず一歩中に入ると中の賑わいとの意外なギャップに驚かされたろうと思います。
そんな記憶もあって私の中では「機関区」とか「国鉄工場」とか言うとまず連想するのが機関庫でもターンテーブルでもなく「物資部の賑わい」になってしまいました。昭和40年代前半位までの国鉄の機関区の周辺は今とは比べ物にならない位に活気に溢れていましたが私にとって、それを最も手近に感じさせたのが「物資部」だったのです。
生憎当時の写真が手元になく、ネットで検索しても当時の物資部の賑わいを写真に収めた資料がなかなか見つかりません。ですからこうして拙い文章で雰囲気を伝えようとしても書きたいことの10分の1も表現できていないのがもどかしいです。
その物資部ですが昭和50年代中頃、新幹線の線路の敷設とそれに伴う区画整理の影響で懐かしい木造の建物は取り壊され、近代的なスーパー風の建物に建て替えられ名称も「ぶっしぶストアー」と変わりました。開店直後に1,2度行きましたが新しい建物は小奇麗にはなった物のそこいらのスーパー(雰囲気的には田舎の生協か農協ストアーに近い)と大して変わらなくなってしまっていてがっかりしたものです。
今ではその物資部自体がなくなり国鉄アパートや鉄道病院も取り壊され、跡地は広大な駐車場を備えたマックスバリューになってしまいました。当時のよすがを偲ぶものも殆ど残っていません。
(写真は本題とは関係ありません)
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この記事へのコメント
仙台にもそういうのがありましたか(笑)
こういう施設を覚えているのは当時実際にお世話になった人たちばかりの様で、鉄道誌や模型誌で取り上げられるケースは寡聞にしてほとんどない様ですね。
HPの検索でもヒットするのは思い出話が主体で写真や資料として残している人は少ないようです。
私も最近知りましたが盛岡の物資部ストアは後にジャスパーとなってごく最近まで営業していたのだそうです。