10年目の3月11日
東日本大震災から今日で10年目。
ひと昔の節目とはいえ、今思い出すとまるでついこの間の事の様に思い出されます。


上の写真は震災の前夜撮影したものです。
あの当時は自分の腕前のつたなさも何のその、TMSのレイアウトコンペに出品すべくレイアウトの改修に血道をあげていました。
確か夜の10時過ぎくらいだったと思うのですが、そんな時間でも改修部分の進捗を記録する積りでカメラを構えたのを思い出します。
その時は翌日に何が起きているかなど勿論考えもしなかったし、明日も今日の延長で日常が流れるだろうとか無意識に思い流していました。


その次の日の夜、帰宅してみたら自宅に飾っていたモジュールがこんな状態です。
現住地は被災地から軽く5~600キロは離れていたはずなのにこれまで経験した事のない大揺れ。近所でもブロック塀が道路に向かって倒れ菩提寺の山門が傾くくらいの状況でした。

この写真の手前側にジオコレのマンションがありますが、モジュールの隅に配置してあったのが地震のはずみでモジュールと壁の間に落ち込みバラバラになっていました。3年後くらいにモジュールの改修をしようとして初めて紛失に気づき、サルベージして現在のモジュールに据え付けたのですが、要は「ビル一軒が消えてなくなっても3年位気づかなかった」くらいにあの当時の私は気もそぞろだったという事でもあります。
それくらい、3月11日を境に日常の感じ方が大きく変わったことは確かです。特に災後の半月くらいは故郷の状態を問い合わせたり計画停電に伴う生活リズムの調整、少ないながらも被害のあった地元周辺の警戒などもありましたし、事実何をしても手につかないような心理状態が続いたものです。
それでも現住地周辺は津波被害に直接あった地域に比べればはるかに恵まれていました。
(故郷の周辺でも内陸部や山間部は揺れのひどさに比べると被害自体は軽微な部類だったと思います)
あとで知りましたが沿岸部にいた親類は死傷者こそ出ませんでしたが自宅が流された処が一軒、残りはたまたま高台に居て難を逃れましたがインフラの崩壊や交通の障害が大きく長期にわたって不自由を強いられたようです。
それでも当日のニュース映像などで見る津波の災害は予想を遥かに上回る惨状でした。津波の先端を境目にして「日常の景色が一瞬で消滅する」恐怖という物は文章とかアナウンスとかよりもはるかに雄弁かつ残酷に現実を突きつけてきます。
傍観者として映像を見るだけの立場に過ぎないはずの私たちにとっても、心胆寒からしめる思いだったのは間違いありません。
あの記憶は10年やそこいらで薄れるような性質のものではありませんが、現に10年目を迎えた今はこれまでとは全く異なる厄災が私たちの生活を変えつつあります。
世の中で常に安定しているものはない、常に変わりゆく現実に対する心構えを持ち続けることが必要という事を改めて感じています。
そんな現実に(心理的に)押しつぶされそうになっていた折でもふと気が付くと「テツドウモケイをいじくりまわしていると不思議に気持ちが落ち着くのを感じた」のはほとんど唯一の救いでした。

あの時期に仕上げたレイアウトは(出来の良否はさておいて)今でも鮮烈な思い出とともに残っています。
光山鉄道管理局
HPです。

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ひと昔の節目とはいえ、今思い出すとまるでついこの間の事の様に思い出されます。


上の写真は震災の前夜撮影したものです。
あの当時は自分の腕前のつたなさも何のその、TMSのレイアウトコンペに出品すべくレイアウトの改修に血道をあげていました。
確か夜の10時過ぎくらいだったと思うのですが、そんな時間でも改修部分の進捗を記録する積りでカメラを構えたのを思い出します。
その時は翌日に何が起きているかなど勿論考えもしなかったし、明日も今日の延長で日常が流れるだろうとか無意識に思い流していました。


その次の日の夜、帰宅してみたら自宅に飾っていたモジュールがこんな状態です。
現住地は被災地から軽く5~600キロは離れていたはずなのにこれまで経験した事のない大揺れ。近所でもブロック塀が道路に向かって倒れ菩提寺の山門が傾くくらいの状況でした。

この写真の手前側にジオコレのマンションがありますが、モジュールの隅に配置してあったのが地震のはずみでモジュールと壁の間に落ち込みバラバラになっていました。3年後くらいにモジュールの改修をしようとして初めて紛失に気づき、サルベージして現在のモジュールに据え付けたのですが、要は「ビル一軒が消えてなくなっても3年位気づかなかった」くらいにあの当時の私は気もそぞろだったという事でもあります。
それくらい、3月11日を境に日常の感じ方が大きく変わったことは確かです。特に災後の半月くらいは故郷の状態を問い合わせたり計画停電に伴う生活リズムの調整、少ないながらも被害のあった地元周辺の警戒などもありましたし、事実何をしても手につかないような心理状態が続いたものです。
それでも現住地周辺は津波被害に直接あった地域に比べればはるかに恵まれていました。
(故郷の周辺でも内陸部や山間部は揺れのひどさに比べると被害自体は軽微な部類だったと思います)
あとで知りましたが沿岸部にいた親類は死傷者こそ出ませんでしたが自宅が流された処が一軒、残りはたまたま高台に居て難を逃れましたがインフラの崩壊や交通の障害が大きく長期にわたって不自由を強いられたようです。
それでも当日のニュース映像などで見る津波の災害は予想を遥かに上回る惨状でした。津波の先端を境目にして「日常の景色が一瞬で消滅する」恐怖という物は文章とかアナウンスとかよりもはるかに雄弁かつ残酷に現実を突きつけてきます。
傍観者として映像を見るだけの立場に過ぎないはずの私たちにとっても、心胆寒からしめる思いだったのは間違いありません。
あの記憶は10年やそこいらで薄れるような性質のものではありませんが、現に10年目を迎えた今はこれまでとは全く異なる厄災が私たちの生活を変えつつあります。
世の中で常に安定しているものはない、常に変わりゆく現実に対する心構えを持ち続けることが必要という事を改めて感じています。
そんな現実に(心理的に)押しつぶされそうになっていた折でもふと気が付くと「テツドウモケイをいじくりまわしていると不思議に気持ちが落ち着くのを感じた」のはほとんど唯一の救いでした。

あの時期に仕上げたレイアウトは(出来の良否はさておいて)今でも鮮烈な思い出とともに残っています。
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