TEZMO SYNDOROMEとマツダキャロルのはなし
今回は今月更新された「TEZMO SYNDOROME」の姉妹編です。
今回のはなしでは主人公の「鉄(模)女」風奈が赤羽の模型屋さんで買ったKATOのキハ82系を愛でるのがメインのはなしなのですが、漫画の冒頭で風奈のルームメイトの麻里が同じ店で買った「自動車のプラモ」の製作を風奈に頼み込むくだりがありました。
で、そのプラモと言うのが「マツダの初代キャロル」それも後期型です。
これに思わずビビッと来るわたし(爆笑)
実は私の亡父が50年以上前に免許を取って初めて買ったマイカーと言うのがこの初代キャロルでした。
サブのブログでは、これまで亡父やわたしのクルマ遍歴について随分と書いて来たのですが、一番最初のマイカーであるにも拘らず、このキャロルの事をまだ書いていなかったのを思い出しました。
今回の掲載は当時を思い出すにはいいきっかけと思うのでこの機会にそのキャロルの思い出話も書きたいと思います。
父が初めてキャロルで乗り付けてきたのは確か昭和43年か44年頃と記憶しています。
あの頃は軽自動車でもスズキのフロンテやダイハツのフェロー、そしてHONDAのN360が台頭してきていた時期でそれまで主流だったスバル360やマツダのキャロルがそれらの新興勢力に徐々に追い立てられつつあった時期でもありました。
そんな折にキャロルを購入した父の意図は今でもよくわかりませんが、他社の軽に比べるとセダンの様なノッチバックデザインは小さいながらもなかなか立派に見えたものです。
購入後しばらくは共稼ぎだった父と母、そして当時小学生だったわたしの3人を詰め込んで朝夕の通勤、通学にこのキャロルが供されていました。
ただ、一応4ドアセダンだったとはいえ後席などは小学生、それも低学年の餓鬼が二人も乗ればキツキツの狭さでした。いわゆるクリフカットのCピラー造形のおかげで頭が窮屈と言うのだけはなかったのですが、横方向の狭さは如何ともし難いものがありました。
しかもこの状態だと「荷物なんかまず載らない」
今にして思い出すのですがこのキャロルに乗っていた時期は「クルマで買い物に出掛けたという記憶がありません」3人乗って3人分の買い物荷物を飲み込むほどの余裕はこのクルマには殆どなかったのでしょう。
走りは他のクルマに比べるとかなり喧しかった筈なのですが不思議とその記憶がありません。
恐らくですがあの当時は未舗装路がかなり多かった(1972年当時で日本の道路舗装率は20%だったそうです)せいか「砂利道のノイズの方が強く印象に残っていた」せいでしょう。
一度か二度平坦路で、父が試しに「時速100キロ」を出してみた事がありますが、メーター上とはいえ時速100キロは助手席にいたわたしからするとかなりの恐怖体験でした。なにしろ当時はシートベルトどころかヘッドレストすらなかったのですから無理もない。
(実際はメーターの甘さを勘案して時速80キロ内外だったのではないかと思います)
流石に親子3人(翌年弟が生まれて4人)ともなるとキャロルでは余裕がなさすぎるのは明白でした。
そのキャロルは二年ほどで同じマツダのファミリアプレストに切り替わります。
今ではそのキャロルは当時撮影された8ミリフィルムの映像かTLVのミニカーで偲ばれる存在になりました。
鉄道模型用としては確か津川洋行のメタルモデルにこの仕様のキャロル(パトカー仕様も)が出ていたと思いますから、スバル360と並んでこのキャロルもレイアウト上で活躍させることができるのは有難いはなしですね。
「キャロル」と言う軽自動車はその後20年以上を経て一度復活していますが、復活後の3代目以降はスズキアルトのOEM車になってしまい、街角で見掛けてもキャロルと意識されない不憫な存在になってしまった感があります(涙)
さて、「TEZMO~」では風奈がキャロルのプラモの製作を約束しているので、次回辺りその漫画が載るのかなとかひそかに期待していたりします。
何か今回の記事はキハ82の時よりも分量が多くなったような気が(汗)
光山鉄道管理局
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今回のはなしでは主人公の「鉄(模)女」風奈が赤羽の模型屋さんで買ったKATOのキハ82系を愛でるのがメインのはなしなのですが、漫画の冒頭で風奈のルームメイトの麻里が同じ店で買った「自動車のプラモ」の製作を風奈に頼み込むくだりがありました。
で、そのプラモと言うのが「マツダの初代キャロル」それも後期型です。
これに思わずビビッと来るわたし(爆笑)
実は私の亡父が50年以上前に免許を取って初めて買ったマイカーと言うのがこの初代キャロルでした。
サブのブログでは、これまで亡父やわたしのクルマ遍歴について随分と書いて来たのですが、一番最初のマイカーであるにも拘らず、このキャロルの事をまだ書いていなかったのを思い出しました。
今回の掲載は当時を思い出すにはいいきっかけと思うのでこの機会にそのキャロルの思い出話も書きたいと思います。
父が初めてキャロルで乗り付けてきたのは確か昭和43年か44年頃と記憶しています。
あの頃は軽自動車でもスズキのフロンテやダイハツのフェロー、そしてHONDAのN360が台頭してきていた時期でそれまで主流だったスバル360やマツダのキャロルがそれらの新興勢力に徐々に追い立てられつつあった時期でもありました。
そんな折にキャロルを購入した父の意図は今でもよくわかりませんが、他社の軽に比べるとセダンの様なノッチバックデザインは小さいながらもなかなか立派に見えたものです。
購入後しばらくは共稼ぎだった父と母、そして当時小学生だったわたしの3人を詰め込んで朝夕の通勤、通学にこのキャロルが供されていました。
ただ、一応4ドアセダンだったとはいえ後席などは小学生、それも低学年の餓鬼が二人も乗ればキツキツの狭さでした。いわゆるクリフカットのCピラー造形のおかげで頭が窮屈と言うのだけはなかったのですが、横方向の狭さは如何ともし難いものがありました。
しかもこの状態だと「荷物なんかまず載らない」
今にして思い出すのですがこのキャロルに乗っていた時期は「クルマで買い物に出掛けたという記憶がありません」3人乗って3人分の買い物荷物を飲み込むほどの余裕はこのクルマには殆どなかったのでしょう。
走りは他のクルマに比べるとかなり喧しかった筈なのですが不思議とその記憶がありません。
恐らくですがあの当時は未舗装路がかなり多かった(1972年当時で日本の道路舗装率は20%だったそうです)せいか「砂利道のノイズの方が強く印象に残っていた」せいでしょう。
一度か二度平坦路で、父が試しに「時速100キロ」を出してみた事がありますが、メーター上とはいえ時速100キロは助手席にいたわたしからするとかなりの恐怖体験でした。なにしろ当時はシートベルトどころかヘッドレストすらなかったのですから無理もない。
(実際はメーターの甘さを勘案して時速80キロ内外だったのではないかと思います)
流石に親子3人(翌年弟が生まれて4人)ともなるとキャロルでは余裕がなさすぎるのは明白でした。
そのキャロルは二年ほどで同じマツダのファミリアプレストに切り替わります。
今ではそのキャロルは当時撮影された8ミリフィルムの映像かTLVのミニカーで偲ばれる存在になりました。
鉄道模型用としては確か津川洋行のメタルモデルにこの仕様のキャロル(パトカー仕様も)が出ていたと思いますから、スバル360と並んでこのキャロルもレイアウト上で活躍させることができるのは有難いはなしですね。
「キャロル」と言う軽自動車はその後20年以上を経て一度復活していますが、復活後の3代目以降はスズキアルトのOEM車になってしまい、街角で見掛けてもキャロルと意識されない不憫な存在になってしまった感があります(涙)
さて、「TEZMO~」では風奈がキャロルのプラモの製作を約束しているので、次回辺りその漫画が載るのかなとかひそかに期待していたりします。
何か今回の記事はキハ82の時よりも分量が多くなったような気が(汗)
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